近年、企業価値を高めるための経営手法として注目が高まっているのが「人的資本経営」です。人的資本経営では、中長期的な視点で人材戦略を策定及び実践するとともに、ステークホルダーに向けて取り組み内容を説明することで、企業価値の向上を目指します。
本記事では、人的資本経営は従来の経営スタイルと何が違うのか。導入する場合、何から手をつければ効率的なのかなど、人的資本経営の基本や特徴、取り組み方、進め方について紹介します。
目次
人的資本経営とは
人的資本経営とは、「人材」を資本ととらえて投資の対象にする経営方法です。
つまり人的資本経営は「人材」を活かして企業価値を高めていく経営手法と言えます。
人的資本経営が注目された背景として、働き方の多様化やビジネス環境の急激な変化など、企業を取り巻く状況には大きな変化が訪れていることが挙げられます。そのような変化の中、人材を活かした経営戦略を構築することで、持続的に企業を成長させていく手法が人的資本経営です。
従来の経営手法では、「人材」を資源ととらえられており、自己啓発支援やOFF-JTなどにかかる教育費は「コスト」として優先度が下げられる傾向にありました。しかし人的資本経営では、人材を「価値を生産する根源」としてとらえることで、人材の成長に対する支出も「コスト」ではなく、「価値を生産する投資」として積極的に実施されるようになっています。
また、人的資本経営では、人材に関する戦略と経営戦略が深く関連している点が特徴です。例えば、経営課題をテクノロジー分野の強化とした場合、テクノロジーに強い人材の育成や採用が必要になってきます。働き方の多様性を掲げた場合は、雇用や人事制度の見直しも必要です。
このように人的資本経営では、経営と人材に関する戦略が深く結びついています。
人的資本と企業ブランドの関係
人的資本経営は、企業ブランドにも深くかかわっています。人的資本経営では、企業の経営陣が積極的に「自社の人材戦略がどのように経営に活かされているのか」を対外的に発信することが必要です。
経営と人材戦略がどのように連動しているのか、人材戦略の進捗はどうなっているのかなど、見える化が求められています。このように人材に関する情報を開示することで、企業の魅力を発信することが可能です。
企業ブランドを構成する要素には、「人的魅力」「財務的魅力」「商品的魅力」などがありますが、このうち重要なのが「人的魅力」です。
人的魅力とは、「その企業に信頼できる経営者がいるか」「ビジョンを掲げて業界を牽引しているか」「チャレンジ精神溢れる経営者がいるか」といった項目において評価を受ける魅力のことを言います。ちなみに、前述した項目については『企業魅力度調査』における“企業の魅力を感じる項目のTOP5”に含まれています。
つまり、「人的魅力」を向上することは企業の魅力を向上させることに繋がります。
また従来は、商品の品質やサービスを追求していれば良い時代でした。しかしそれだけでは、企業ブランドを向上させるのは難しくなっています。企業で働く人材一人ひとりが、自社商品や、サービスなどの魅力・質を向上させていることを前提条件とし、企業ブランド向上を計画することが重要です。
また就職活動や転職活動を行う際に重視されるポイントとして「企業理念」が挙げられます。自分がその企業で働きたいと思える人材がいたり、社風が魅力的であれば、採用の競争力を高めることが可能でしょう。そのため、いかに魅力的な人材がいるのか、オープンな社風であるのかなど、発信していくことが企業ブランドを向上させる有効な方法と言えます。
人的資本導入のプロセス
人的資本経営の重要性は把握できたものの、実際に何から取り組んでいけば良いのかわからないという課題を抱えている方も多いかもしれません。ここでは、実際に人的資本経営を導入するために必要なプロセスについて説明します。
人的資本経営を導入するためには、企業内に新たな変革や挑戦を許容する文化が備わっていることが重要です。企業が目指すべきゴールは環境によって変化していきます。その変化に対して柔軟に戦略を変え、企業として成長していく必要があるためです。こういった企業の文化は、常に挑戦し続ける土壌を生んでいきます。そしてそれが「企業らしさ」というオリジナリティにつながるでしょう。
現状調査・定量化
現状調査、定量化は、人的資本開示項目に関して現状を数値化するプロセスです。まずは自分たちの現状を知る必要があります。自分たちの現状を知った上で、目標を設定していく流れです。
数値化する項目は、国際標準化機構(ISO)が制定した「ISO300414」がベースとなります。また、その他にも「GRIスタンダード」「SASBスタンダード」「ステークホルダー資本主義測定指標」なども有効な指標です。
日本では、コーポレートガバナンスコードや有価証券報告書にて、人材に関する開示が義務化されています。開示する情報は変化するので、常に何を開示しなくてはいけないのかを情報収集することが大切です。
目標を定義
目標の定義では、組織や人材のあるべき姿を定義するプロセスです。現状を把握した次のステップとして、どんな組織にしていくのかを決定します。
企業という組織には、その企業固有の「概念」が存在していることでしょう。その概念に人材が集まり、事業を行っている組織が企業と言えます。企業の概念とは、次の要素です。
- 自分たちを取り巻いている「現状」
- 自分たちが目指している「なりたい姿」
- 目指している姿になった時に社会に提供できる「価値」
- 顧客が目指している姿になった時に提供できる「価値」
- 現状から目指している姿を実現するための「戦略や戦術」
- 各社員が行うべき「理想の行動」
- 企業が重要視すべき「企業の強み、文化、価値観」
企業として掲げている目標が、これらの要素のどの部分に当てはまるのかを意識した上で、不足している要素を補っていく必要があります。
現実と理想のギャップを分析
現実と理想のギャップの分析では、どの部分にギャップがあるのかを分析するプロセスです。ISO30414を参考にすると、次のような項目になります。ISO30414は、人的資本の開示情報に関しての項目を取り決めている指針です。ISO30414では、11個の人的資本に関する項目があります。
人的資本エリア | 説明 |
1.コンプライアンスと倫理 | 規範に関してのコンプライアンスの指標 |
2.コスト | 離職や雇用、採用などの労働に関してのコストの指標 |
3.ダイバーシティ | リーダーシップと労働力の特徴を示す指標 |
4.リーダーシップ | 管理職に対しての従業員からの信頼の指標 |
5.組織文化 | 従業員の定着率や意識、エンゲージメントなどの指標 |
6.健康・安全 | 従業員の安全や健康に関する指標 |
7.生産性 | 組織のパフォーマンスや生産性に関しての人的資本の指標 |
8.採用・異動・離職 | 人的資本を提供する企業の能力を示す指標 |
9.スキルと能力 | 従業員に対しての人的資本の内容と質を示す指標 |
10.後継者計画 | 特定のポジションに継承者の候補がどれくらい育成されているかを示す指標 |
11.労働力 | 従業員の数の指標 |
これらの項目に対して数値を算出し、現状と理想のギャップを分析します。
目標に対してプランを立案
目標に対してのプランの立案では、現状と理想のギャップを埋めるためのプランを検討するプロセスになります。KPI(Key Performance Indicator)という「重要業績評価指標」を使用するのがおすすめです。
KPIは、目標に対しての達成度合いを計測したり、プロセスを監視したりするために設置する「定量的」な指標となります。KPIを設定することで、従業員に対して目標を明確にすることが可能です。また、対外的にも人的資本経営の実践をアピールすることができます。
ただし、現状と理想にギャップがある項目すべてに対して取り組むことは不可能です。人的資本の優先させるべき項目を選定し、選定した項目に対してKPIを設定していくのが現実的と言えるでしょう。
KPIを設定した後の予算に関しても、人的資本経営は従来の経営手法と異なります。従来の経営手法では、優秀な人材を採用するための予算や、採用してからの教育に費やす予算などが主に割り当てられていました。
採用してからの数年間は、企業が投資した分よりも生み出される利益が少ない時期が続きます。そして数年経ち、人材が一人前になった後は企業が投資した以上の利益が生み出されるようになるのが通常です。そして企業は、人材が一人前になるまでの期間は投資を行い、一人前になった後は投資をしないという実情は多いです。
一方で人的資本経営では、一人前になった後の人材に対しても投資を行い、企業や社会のために貢献できる価値を発揮し続けてもらう取り組みを大切にする経営方法のため、そのための予算を割いていくことが重要です。日本は少子高齢化に伴った労働人口が減少していくことを背景に、今後もより人的資本の重要性が増すため、一人ひとりの人材に投資するべき予算配分を見直していくことでが必要であると言えます。
施策して実行
プランを立案した後は、プランを施策まで落とし込んだ後、実際に実施していくプロセスに移ります。
施策には「ファンクショナルな施策」と「エモーショナルな施策」の2種類あります。
ファンクショナルな施策とは、あるべき姿を奨励するような仕組みを作ることになります。例えば、企業文化のあるべき姿が「挑戦する組織」であった場合、社員の評価項目に挑戦する行動を組み込むなどです。評価項目に組み込むことで、社員の挑戦する行動を誘発し奨励するような文化を醸成していく方法になります。
エモーショナルな施策とは、社員の心に訴えかける方法です。仕組みとして強制してしまうと、無理やりやらされているという感情が先行してしまいます。そうなると人は、自発的な行動を取らなくなってしまうでしょう。各自が自らの意思で率先して動けるように、仕事の意義や何のためにするのかなど、感情に訴えかける方法になります。
人的資本経営の取り組み方
人的資本経営の取り組み方として、「組織の目指す姿の明確化」「従業員エンゲージメントの向上」「CHRO(最高人事責任者)の設置」など様々ありますが、まずは大まかな取組みについて2つ紹介します。事前にこれらの取り組みに関して理解を深めておくことで、円滑に人的資本経営を導入していくことが可能です。
人的資本の価値を高める
人的資本経営で大切なのは人的資本の価値を高めることです。
当たり前ですが企業の予算は有限のため、無尽蔵に投資を行うことは不可能となります。
そのため、社員の知識や技能、経験などの情報を把握し、人的資本へ適切な予算を配分することが大切です。具体的には、従業員の技能を数値化するスキルチェックシートを作成し、向上させるべき能力を可視化することが有効です。
その結果、研修やセミナーを受講するべき従業員の数や、OJTに対応するベテラン社員の工数を把握できるため、それらの情報を経営戦略に反映していくことが可能になります。
人的資本の情報開示
人的資本経営では、情報の開示も重要な取り組みの一つになります。人的資本経営で実施した取り組みや現在の状況などについて、ステークホルダーに公開することが必要です。具体的に、人的資本に関してどのような情報をどうやって収集し分析したのか、そしてどのような施策を行っているのかを開示します。ステークホルダーに公開することで、企業はステークホルダーからのフィードバックを経営戦略に活かすことが可能です。
人的資本経営導入後の取り組み
人的資本経営を導入した後は、導入前に計画した取組方法や方針を社内全体に浸透させなければいけません。社員に浸透しないまま取り組みを行ったとして、『無駄な研修やセミナーに参加させられた』といった不満が挙がっては元も子もありません。そこで、浸透方法や導入後の進め方について説明します。
会社の組織全体に浸透させる
人的資本経営は、経営陣だけの取り組みではありません。企業全体で人的資本の価値を高める取り組みを行う必要があります。そのためには、社員一人ひとりが人的資本経営に対しての意識を持つことが必要です。社員が経営戦略や人事戦略の方向性を理解することで、それに沿った考えや行動を促し、企業全体に浸透させることが大切となります。具体的な方法としては、次の3つです。
- 経営目標や企業理念を明確にして、企業としての基本的な考え方を企業全体に浸透させます。経営目標が明確に掲げられることで、社員の意識を高めることが可能になるでしょう。
- 社員の意識改革を促すことが大切です。例えば社員の評価制度に、自社の理念に沿った行動に対する項目を組み込み、社員の自発的な行動を促す方法になります。
- CEOやCHROなどの最高責任者と社員が、直接コミュニケーションを取る場を設けることが大切です。なぜなら人的資本経営の浸透には、経営陣と社員の双方が理解する必要があるためです。
目標と現実のギャップを埋める
人的資本経営では、人事戦略と経営戦略が連動している必要があります。そのためには、目標とする姿と現状のギャップを埋める取り組みが必要です。具体的な方法としては次の2つがあります。
- 社員の知識や技能、経験などを把握した上で、社員を育成していくことが大切です。企業をあるべき姿にするために、必要な人材を育てていくということになります。例えば社員のスキルを把握するために、スキルマップを作成し現状と目標を設定する方法が有効です。
- 目標達成までの期間を設定することも大切になります。期間を設定することで、目標とする位置にたどり着くためには、いつまでに何が必要なのかを明確にすることが可能となるためです。
人的資本を高める戦略
人的資本経営では、人的資本の価値を高める戦略を行うことが大切です。人的資本の価値を高めるためには、経営と連動した人事戦略を策定する必要があります。さまざまな環境の変化がある中で、確実に企業価値を向上させるためには人事戦略は必要不可欠です。
経営に連動した人事戦略を策定することで、企業内の人的資本の価値を高めることにもつながります。ここでは、経営と連動した人事戦略を策定するための方法について説明します。
CHROの設置
CHRO(Chief Human Resource Officer)とは、最高人事責任者のことです。経営陣の一人として、人事に関するすべての業務の責任を持つポジションになります。CHROは経営陣の意見を取り入れると同時に、社員やステークホルダーともコミュニケーションを取り、さまざまな立場から人的資本経営をリードしていくことが求められます。よって、CHROを設置することは、人的資本の価値を高めることにつながります。
経営課題の整理
経営課題を整理することで、経営と連動した人事戦略を策定しやすくなります。経営課題を整理するためには、企業内の課題と改善策を定期的に洗い出すことが必要です。経営課題を整理することで、企業内の何が課題となっているのか、経営陣や社員の認識を一致させることが可能になります。経営課題の整理方法は様々ありますが、業務プロセスの可視化、社員の評価結果に基づいた適切な人員配置、戦略マップの作成などが代表例です。
整理した経営課題の中で、社員のスキル不足などが浮き彫りになった場合は、人事戦略を策定する際に役立てることができます。人事戦略の質を高める事ができれば、人的資本の価値を向上させることができます。
KPIの設定
KPIを設定することで、経営と連動した人事戦略を策定することが可能となります。策定した人事戦略に沿って取り組みを実施していくには、企業内や社会の状況の変化に対応していくことが必要です。そのため、策定した人事戦略は都度見直していくことが大切になります。
達成したい目標や必要な人材などを具体的に洗い出し、KPIを設定しておくことが重要です。そうすることで定期的に見直しを行った際に、経営と人事戦略にずれが生じた場合でも、容易に軌道修正を行うことが可能となります。
まとめ
近年注目されている「人的資本経営」について、基本的な情報および特徴、取り組み方などを説明しました。人的資本経営では、企業に所属する社員一人ひとりの能力を最大限に引き出すことが重要です。そのために、人材に対して投資を行っていく経営手法となります。
また人的資本経営では、取り組み内容や人材の情報をステークホルダーに情報開示することで、ステークホルダーとの関係を築いていくことも重要な要素です。いかに戦略的に情報開示を行うかという点がポイントとなるでしょう。
人的資本経営を導入する場合は、自社の中で人材の価値を向上させていく環境を構築していく必要があります。どのような人材が自社にとって必要なのかを選定し、効果の得られそうな方法から進めていくのが良いでしょう。