2023年3月期から、上場企業に対して有価証券報告書における人的資本の情報開示が義務付けられました。人的資本の可視化にあたり、経営戦略の明確化やその経営戦略に合った人材像の特定など、人的資本の投資に係る明確な認識やがビジョンが必要です。
本記事では、政府が公表する「人的資本可視化指針」に基づき、開示が求められる項目や可視化による企業のメリット、可視化のステップを解説します。
目次
「人的資本可視化指針」とは?
「人的資本可視化指針」は、2022年8月30日に内閣官房の非財務情報可視化研究会から公表された資料です。人的資本に関する資本市場への情報開示のあり方に焦点を当て、既存の基準やガイドラインの活用方法など、人的資本の対応の方向性を包括的に整理した手引きとして編さんされました。「人的資本可視化指針」は、人的資本の開示において企業が自社の業種やビジネスモデル、戦略に応じて積極的に活用することが推奨されています。
「人的資本可視化指針」の目的
「人的資本可視化指針」の目的は、人的資本の可視化に向けて企業に具体的な行動に落とすためのベースを整えることです。「人的資本可視化指針」は、以下の内容で構成されています。
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人的資本を可視化する背景をふまえ、可視化の方法や可視化に向けたステップを提示することで、人的資本を可視化する重要性とその手段を提示しています。
「人的資本を可視化して開示する重要性は理解しているが、具体的に何をすれば良いかわからない」と感じている、あるいはまだ人的資本の可視化に取り組んでない企業にとっては参考になる資料です。
「人的資本可視化指針」公表の背景
非財務情報の開示に投資家の関心が高まる中、その開示項目や方法については基準や指針が乱立している状態です。人的資本可視化公表の背景には、開示項目の具体例や可視化の手段を公開し、企業がステークホルダーに対して適切な人的資本の開示を促すことが挙げられます。
「人的資本可視化指針」の資料内では人的資本を可視化することで、株主や投資家などのステークホルダーが企業や経営者に何を期待しているのか、人的投資が企業にどのようなメリットをもたらすのかを提示しています。「開示」が目的とならず、その先の企業価値向上や持続的成長を促し、日本経済を成長させる意図を理解してもらうことも可視化指針公表の背景にあると考えられるでしょう。
人的資本の可視化には「情報開示」が必要|その背景とは
「人的資本可視化指針」が公表された背景には、人的資本の情報開示の必要性が高まっていることもあります。米国では2020年に人的資本の開示が義務化され、日本でも2023年3月期より上場企業を中心に有価証券報告書での人的資本情報の記載が義務化されました。
では、なぜそれほどまでに人的資本情報の開示が重要視されているのでしょうか。その理由には、主に以下3つが挙げられます。
無形資産の重要性の高まり
「人的資本可視化指針」では、競争優位性の源泉や持続的な企業価値向上の推進力は「無形資産」にあると述べています。ここでいう無形資産は、主に「人的資本」のことです。
人的資本とは、従業員が持つ資質や能力を発揮することで企業の付加価値を生み出し、企業価値の向上や競争優位性を確保するための資本とみなす考え方です。
人的資本のような無形資産は目には見えないため、企業が持つ資産を把握して外部のステークホルダーに伝えるためにも、まず可視化する必要があります。
ESG投資の浸透
ESGとは「Environment(環境)」「Social(社会)」「Governance(ガバナンス)」のことで、ESG投資はそれぞれの3要素に対して企業がどのように取り組んでいるかを判断基準として、その評価に基づいて投資を行うことです。ESGの基準を満たすことは持続可能性が高い企業として、投資面で高い評価を受けられる可能性があります。
人的資本はESGの「Social(社会)」に該当する要素です。人的資本を開示することで企業がどれだけ「Social(社会)」に取り組んでいるかが可視化され、持続可能性が高いことがアピールできます。
人的資本経営の促進
労働人口減少などの時代の変化に伴い、企業が持続的に成長していくためには「ヒト」に着目することが重要となっています。これまでの経営では人材を「コスト」として消費するものと捉えていましたが、この考え方では持続的な成長が望めません。そこで、人材を「資本」と考え、投資対象とする人的資本経営の考え方が広まりました。
「人材版伊藤レポート2.0」においても、持続的な企業価値の向上に向けて人材戦略を変革する必要性が説かれています。下記は、「人材版伊藤レポート2.0」で明記されている、これまでの人材戦略と人的資本経営の違いをふまえた変革の方向性です。
企業が人材に投資するには、まずは従業員がどのような資本(能力やスキル)を保有しているのかを可視化する必要があります。
人的資本の可視化「情報開示」が求められる項目
情報開示が求められているのは、下記7分野19項目です。「人的資本可視化指針」では、開示事項例も公開しています。
人材育成 | リーダーシップ、育成、スキル・経験 |
エンゲージメント | 従業員満足度 |
流動性 | 採用、維持、サクセッション |
多様性 | ダイバーシティ、非差別、育児休業 |
健康・安全 | 精神的健康、身体的健康、安全 |
労働慣行 | 労働慣行、児童労働・強制労働、賃金の公平性、福利厚生、組合との関係 |
コンプライアンス | 法令遵守 |
情報開示が義務化されている項目
2023年3月期決算以降の有価証券報告書において、非財務情報「サステナビリティ」が新設され、人的資本の情報開示が義務化されています。対象となるのは「有価証券を発行している企業」のうち、大手企業約4,000社です。有価証券報告書に、以下の情報を記載する必要があります。
人的資本について | ・人材育成方針 ・社内環境整備方針 |
多様性について | ・従業員の状況(人材投資の費用、従業員の満足度など) ・女性管理職比率 ・男性の育児休業取得率 ・男女間賃金格差 |
情報開示の方向性
現状、義務化されている項目以外は企業の戦略に合わせて内容を選択し、情報開示する内容は下記2点から検討します。
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他社の開示事例や基準に沿った定型的な開示ではなく、自社のビジネスモデルや経営戦略と関連性のある項目と、投資家が企業間で比較するにあたって有効となる項目に配慮することがポイントです。比較可能性を意識した開示項目は、可能な限り自社の戦略やリスクマネジメントと紐付けて開示することが望ましいとされています。
企業が保有する人的資本情報をどの項目から開示していくかによって、企業の成長性や市場価値が問われるといっても過言ではありません。「人的資本可視化指針」と人材版伊藤レポートを併せて活用することで、より効果的な開示ができるようになるでしょう。
人的資本の可視化で企業に期待されていること
人的資本の可視化において、投資家は企業に対して以下の内容について優先的な開示を期待しています。
・経営層・中核人材の多様性の確保方針 ・中核人材の多様性に関する指標 ・人材育成方針、社内環境整備方針 |
単純にこれらの内容を説明するだけでなく、自社が直面する重要なリスクと機会、長期的な業績や競争力と関連付けることがポイントです。なぜなら、投資家がチェックしたいのは、企業のリスク管理と長期的な成長性であるからです。
こうしたポイントをふまえて目指すべき姿やモニタリングすべき指標を検討し、開示項目を明瞭かつロジカルに説明することが期待されています。
人的資本「情報開示」の影響|企業にもたらすメリット
人的資本を可視化することで、企業は自社の従業員のスキルや経験を定量的に把握することが可能となります。従業員のスキルや経験を定量的に把握できている状態であれば、従業員のパフォーマンスが最大限発揮されるための配置転換など、適切かつ効果的な人材戦略に活かせます。また、現時点で保有するスキルが把握できれば、今後強化し、補うスキルや能力を把握することが可能です。強み・弱みの把握は、効率的な人材育成・活用につながります。
人材戦略において“適材適所”に配置転換を行うことで、従業員がパフォーマンスを発揮しやすくなり、成果・評価にも良い影響を与えるでしょう。さらに、企業が従業員に対して、育成や成長への投資を継続して実施することで、エンゲージメントの向上にも繋がります。従業員エンゲージメントの向上は、生産性やパフォーマンス、定着率の向上など、多くのメリットをもたらすでしょう。
その上で、人的資本へ投資ができていることを情報開示でアピールできれば、投資家からも高い評価が得られ、企業価値の向上にもつながります。
可視化のステップ
「人的資本可視化指針」において、人的資本の可視化は段階的に進めていくことがポイントと書かれています。なぜなら、最初から高い完成度で進めていくことは難易度が高いためです。
可視化指針では、可視化のステップを「①基盤・体制確立編」と「②可視化戦略構築編」の2つに分けています。ベースとして人的資本の定量的な把握と分析を進めつつ、この2つを一体的に取り組むことが効果的としています。
ここでは、可視化指針で提示する「可視化に向けた準備(例)」に基づき、可視化のステップを2つの観点から解説します。
①基盤・体制確立編
基盤・体制確立のステップでは、具体的に下記に取り組んでいきます。
・トップのコミットメント ・取締役会・経営層レベルの議論 ・従業員との対話 ・部門間の連携 ・人的資本指標のモニターと情報基盤の構築 ・バリューチェーンにおける取引先等との連携 など |
人的資本経営を全社的に推進していくためには、経営陣と人事部門が連携し、人材戦略と可視化にコミットして積極的に発信・対話することが重要です。ただ人的資本経営のためにどんな人材戦略を行うのか、そのためにどういった項目を開示するのかを決めるだけでなく、なぜ人的資本への投資が重要と考えているのか、どのような人材戦略が長期的な企業価値の向上につながると考えているかを経営陣が自分自身の言葉で語ることが求められます。
次に、経営トップの方針をふまえ取締役会や経営層レベルで、人的資本への投資や人材戦略、関連する目標・指標を自社の価値観や目指す姿・ビジョン、経営方針・戦略などと関連づけて一体的に議論を深めていきましょう。ここの関連性を深めることで、人的資本経営と人的資本の可視化を推進する説得力の基礎ができあがります。
そして、ここまでで決まった内容は従業員と対話を通じて共有していきます。従業員との共感を深めることは、戦略を実行していく上で重要な原動力となります。経営戦略や長期ビジョン、その根底にある価値観を含めて対話することが大切です。
経営トップ自身が先頭に立って人的資本経営を推進する姿勢は、投資家からのポジティブな評価にもつながります。従業員との対話まで実施できれば、人的資本可視化に向けた部門間の連携を強化し、開示項目や指標の決定、情報収集の基盤を構築するなど、具体的なアクションに取り組んでいきます。
②可視化戦略構築編
可視化戦略構築では、具体的に下記に取り組んでいきます。
・価値協創ガイダンスに沿った人的資本への投資人材戦略の統合的ストーリーの検討 ・人材戦略人材版伊藤レポート、人材版伊藤レポート2.0と相互的な参照と戦略立案 ・4つの要素の検討 ・逆ツリー分析 |
ベースとなるのは、人材戦略と経営戦略の「統合的なストーリー」です。これを効果的・効率的に検討するには、価値協創ガイダンスに位置づけられている各要素と人的資本への投資・人材戦略の関係性を確認することがポイントです。
価値協創ガイダンスに位置づけられている各要素は、以下5つです。
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人的資本への投資や人材戦略の取り組みについては、「人材版伊藤レポート2.0」で具体的なアイデアが示されています。あわせて、「人材版伊藤レポート」で提示されている人材戦略に求められる「3つの視点・5つの共通要素」の枠組みも参考にすると良いでしょう。
人的資本投資や人材戦略の可視化に初めて取り組む企業は、FRC*(英国財務報告評議会)の報告書における「企業が自らに問うべきこと」に沿って開示内容を検討するのも有効です。
そして、自社で策定した戦略に対して投資家からの理解を得る促すためには、その戦略がどのようなアウトプット・アウトカム、企業価値の向上につながるかを論理的に示すことが求められます。財務とのつながりの観点から人材戦略の有効性を検証することも有効な手段の1つです。さらに、ROEやROICなどの指標との関連性も吟味して開示項目を検討することは、投資家と企業が一体となって価値向上を図る上でも役立ちます。
*FRC(英国財務報告評議会)の報告書における「企業が自らに問うべきこと」(P.38)についてはこちら
まとめ
人的資本の情報開示の手引きとなる「人的資本可視化指針」は、企業とさまざまなステークホルダーが相互理解と信頼を深めるために役立つ資料です。人的資本の可視化に取り組み、情報開示を行うことは、企業にとっても多くのメリットをもたらします。
人的資本の可視化のために、経営陣は「人事戦略」「育成」「労働環境整備」において、自社が直面するリスクと機会を把握することが必要です。その上で、長期的な業績や競争力に関連づけをしながら、目標やモニタリングすべき指標を明確にし、経営と人事部門が連携して人的資本の可視化に取り組むことが重要です。
人的資本の可視化は、「人材版伊藤レポート」および「人材版伊藤レポート2.0」と併せて活用することがおすすめです。これにより相乗効果を生み出し、より総合的なアプローチが可能となります。
人材版伊藤レポートについては、こちらの記事も参考にしてください。